タイトルの「秋」は本来「夏」ですが、四季折々鬱になる自分にとっては、入れ替えて歌うことで他人に自分の鬱さ加減を伝え、同情を引くためのいい歌として重宝しております。…ラルクファンに殺されそうですが、自分もファンなので許してください。お願いします。
それはさておき、久々に逝っちゃいたいほどの憂鬱の波に襲われ眠れません。そんなときには横に彼女さんでもいれば…と、尊敬する紐井さんの如きセリフが脳内を掠めますが、やはり紐井さんと同じくそんな人など存在しないので、腕は空しく空を切るのみでございます。
そしてこう憂鬱なときは、こんな考えが浮かぶ。自分の周りにも若くして不可避な病により亡くなった方がいる。そして彼らは間違いなく努力し、人生を真摯に捉え生きていた。ならば無為に日々を過ごす自分の生より、彼らの生の方が尊いのではないか、と。自分が死んで、彼らが生きていた方が良かったのではないか、と。どうせ自分には何もできやしない、ただの無力な人間として過ごし一生を終えるだけだ。それならば志半ばで亡くなった彼らの方がよほど世界のために、そんな大きな事でなくとも、よほど周囲に幸せを残せるのではないか、と。
…でもそこでゲスな私は、こうも思う。彼らがそれだけ人生に向かって真摯に生きていたのは、終わりというタイムリミットが見えていたからであって、仮に彼らに自分と同じ生を与えたのなら、彼らは果たしてそうまで人生に対し真摯に向き合ったのだろうか、と。自分自身、ある種の締め切りやタイムリミットがないと何も出来ない人間なので、ついこう邪推して、自分だけがダメ人間じゃないと自己弁護するわけだが、でも真面目に人生考えている人はずっと真面目にやってるよなぁ(笑)。
おそらく自分などより遙かに険しい道を行く、全ての人に幸いあれと思いつつ、今日も今日でそろそろ寝ようかなと思うあたり(現在時刻:午前5時過ぎ)、自分はダメ人間なのだとつくづく思い知るのであった。 (完)
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